「試合の中でレベルアップする体へ」― サッカー選手・鈴木大輔が語る挑戦と成長の哲学

サッカーとの出会いと兄への対抗心

坂田: サッカーのスタートは一般的に見て遅かったんですか?

鈴木: そうですね。小学1年からです。僕らの世代では小学1年が早かったかもしれない。今の子達は幼稚園からやってる子も多いですけどね。

坂田: 当時はまだサッカーがそんなにブームになる前で、野球の方が人気がありましたよね。始めたきっかけは何だったんですか?

鈴木: 兄がいて、兄がサッカーをやっていたので、それについていく感じでした。そのときは将来プロになるという考えはなくて、ただ楽しくサッカーやっていましたね。兄が1つ上で年が近いので、「兄に負けないように」という気持ちでやってました。でも、ずっと負けてばかりで(笑)。それが悔しくて続けてた記憶があります。

坂田: 1つ上の兄でも実力は全然違ったんですね。

鈴木: それがすごく悔しくて。最初のモチベーションはそこですね。

坂田: ポジションはどうだったんですか?

鈴木: 小学生から中学までずっとフォワードでした。点を取ることがサッカーだと思ってやってきたんです。

最初の挫折 — ディフェンダーへの転向

坂田: 挫折はなかったんですか?順調に来られたんですか?

鈴木: いえ、挫折はめちゃくちゃありました。中学で自分の代のセンターバック(守備の選手)がいなくて、「お兄ちゃんがディフェンスやってたから、お前もできるだろう」って言われてセンターバックをやらされたんです。でも自分の中では全然やりたくなくて。それが最初の大きな挫折でした。

鈴木: 石川県の選抜チームに入ってたんですが、フォワードからディフェンスになった瞬間に、どんどん地元でも他の選手に追い抜かれていく。小学校のとき、どんどん点を取ってたのに、「あいつ最近消えたな」みたいな感じになってしまって。

坂田: フォワードの雰囲気のまま、なんとなく後ろに下がってるような感じだったんですね。

鈴木: そのマインドしかなかったんです。「ディフェンスをやっても、いつかまたフォワードに戻れる」と思ってました。フォワードに変えるためにディフェンスをやってる、みたいな(笑)。

転機 — U-15日本代表としての矛盾した喜び

坂田: U-15代表に選ばれたのは中学、高校のときですか?

鈴木: 中学の最後ですね。サッカーって早生まれの区分があって、僕は1月生まれなので、1つ下の年代の世代代表に入れるんです。ヨーロッパと同じ時間軸なので、1、2、3月生まれは1つ下の世代扱いなんです。

坂田: そういう制度は有利だったんですね。

鈴木: 体も大きかったので、下の年代の世代に入ることができました。中3のときに選んでもらって、奇跡的に代表入りしました。

坂田: 選考理由は?

鈴木: 「1つ上の年代より体格が良いし、入れておこうか」みたいな感じだったと思います(笑)。

鈴木: でも矛盾してるんですよ。U-15のときに「体が大きいから」って理由で選抜チームに呼んでもらって、そこで日本代表の監督に「アイデンティティ豊か」って評価されて、ディフェンダーとして代表に入るんです。ここから複雑な気持ちになりましたが、風向きが変わった。「ディフェンダーでも日本代表で選ばれてる」という現実があったので。

坂田: この辺りからプロ意識が芽生えてきたんですね?

鈴木: そうですね。U-17のワールドカップに出て、U-18代表にも入って。その頃から現実味を帯びてきました。全国のトップレベルの選手と一緒にプレーする中で、「自分もプロになれるかも」と思うようになりました。

プロデビュー — 夢と現実のギャップ

坂田: 最初にプロになったのはどこですか?

鈴木: 新潟です。高卒でアルビレックス新潟に入りました。サッカー選手権がお正月にある大会があるんですが、それを高2のときに見た新潟のスカウトの方が、高3のときに入団キャンプに呼んでくれたんです。

坂田: そのときはどんな気持ちでしたか?

鈴木: 「プロになったんだ!」という感じでした。自分が見てた選手と一緒にプレーできることに興奮していました。高校後半は半分学校に行かないで、許可をもらって、プロのチームでトレーニングしていました。

坂田: 夢が叶ったわけですね。「絶対試合に出てやろう」という気持ちだったと。

鈴木: 「すごい」「やばい」というよりも、めちゃくちゃワクワクして「やってやろう」という、無知な感じでした(笑)。怖いもの知らずというか。

坂田: でも現実は厳しかった?

鈴木: そうなんです。入団した瞬間から3年間、全然試合に出られなかった。プロの現実を痛感しました。全然通用しなかったんです。すぐに試合に出られると思って入った自分が恥ずかしくなるほど。

坂田: 18、19、20歳くらいの時期ですね。

鈴木: 20歳くらいまで公式戦に出られませんでした。本当に実力不足で。運とかじゃなくて、実力差がめちゃくちゃありました。自分で分析しても、当時レギュラーの先輩たちとは足元にも及ばない。メンタル面も含めて、全然ダメでした。

苦難からの脱出 — 自主トレとチャンス

坂田: どうやって乗り越えたんですか?

鈴木: 何も知識がなかったので、とにかくやれることをやろうと思って、ひたすら筋トレをしました。体を鍛えようと思って筋トレばかりやってたら、先輩から「お前、プロレスラー目指してるのか」って言われて(笑)。でも「今に見てろよ」という気持ちもありました。

鈴木: 自分が試合に出られないことを、全部自分のせいにしていました。監督が悪いとは絶対に思わなかった。元々そういう性格なんですが、完全に自分の実力不足だから、文句を言わずにやれることをやるしかない。それでダメだったらしょうがない、と。

鈴木: そうしてたら、自主トレに付き合ってくれていたコーチが、僕の4年目に監督に昇格したんです。僕は3年契約で、一試合も出ていなかったので、もう「クビだろう」と思って強化部に行きました。クビになったら契約金0円で提示されるんですが、覚悟を決めて行ったら「そのコーチが監督に昇格する」と言われて。その監督が「お前を残せと言っている」と。

鈴木: 首の皮一枚でつながって。翌年にそのコーチがちょっとずつ使ってくれるようになって、最初は試合の最後5分とかから。少しずつ試合に出られるようになり、そのタイミングでオリンピック候補にも呼ばれるようになって。

坂田: 見ていてくれた人が監督になるという。これはなかなか運が良かった。

鈴木: 嬉しかったですね。一つの成功体験というか、自分の中で仕事の美学みたいなものができた時期です。

坂田: 先ほど風向きが変わったという話をしましたが、これって自分に集中しつつも、客観的に見えていることですよね。自分を客観視する習慣はいつからあったんですか?

鈴木: 自分のことを分析する際に、立ち止まって考えるのが結構好きで。それこそノートに書いてみたり、今の感情を整理したり。サッカーノートでも戦術よりも、自分の感情やメンタリティの方に興味があったんです。「なんで自分がプロになれたんだろう」とか。

坂田: 素晴らしいですね。かなり珍しいタイプの選手だと思います。

鈴木: (笑)

坂田: それこそ本質を見ているんですよね。

オリンピック — チームの絆を求めて

坂田: オリンピック出場が決まったときはどんな感情でしたか?

鈴木: 新潟で試合に出られるようになって1、2年目くらいの時期で、とにかく必死でした。オリンピックって同世代のメンバーとやるんです。A代表は世代に関係なく若い選手からベテランまでいますが、オリンピックチームは楽しかったですね。

鈴木: 僕はサッカーをやっているとき、チームを感じるときが一番楽しいんです。「ずっと青春していたい」ってよく言うんですけど、高校サッカーのときに全国大会に向けてみんなで困難を乗り越えながらやっていく時期って、どの世代でもありますよね。それを僕は一生やっていたいからサッカー選手をやっているんです。

坂田: 共通の目標に向かって一緒に頑張るのが好きなんですね。

鈴木: オリンピックにめちゃくちゃ出たいという気持ちも、チームのまとまりもすごく感じられて、それをずっと感じたかったから。このチームが続くのが嬉しいとか。もちろん自分のキャリアの中でも大きな目標だったので、めちゃくちゃ嬉しかったです。

坂田: オリンピックに参加されたのは22歳の時ですね。その後A代表にも。

鈴木: A代表では2試合くらいしか出ていないので、「入った」と言えるかどうか...。当時の代表メンバーは中村俊介さんが抜けるか抜けたくらいの時期で、本田圭佑さん、長谷部誠さん、岡崎慎司さん、川島永嗣さんたちがいました。

坂田: 試合に出る機会はあまりなかったとはいえ、怖いですね。みんな個性が強い。日本サッカー史上でも特に個性的な選手が揃っていた時代ですね。キャラクター的にもかなり尖った選手が多かった。

鈴木: はい。そういう個性的な方々と一緒にいるのは刺激になりました。オリンピックメンバーとは全然違うチームでしたね。

スペイン挑戦 — 究極のゼロからのスタート

坂田: その後スペインのクラブに行かれましたね。カタロニア地方のタラゴナという都市?エージェントを通じての移籍だったんですか?

鈴木: 僕の中では当時所属していたレヴァンテとの契約を更新せず、とにかく海外に行くことだけを決めていました。「練習参加でもいいから、何でもいいから契約を持ってきてください」とエージェントに頼んで。当時の日本のチームからのオファーは全部断ってもらって、スペイン2部のクラブに練習参加で1週間入る形で行きました。

坂田: その時は25、26歳くらい?どれくらいスペインにいたんですか?

鈴木: 結局3シーズン、2年半いました。

坂田: その時期はサッカーも含めて充実していましたか?

鈴木: あの時期が自分の価値観が変わった時で、人生で一番インパクトがあった時期です。全然言葉も通じない、自分のことも誰も知らない、なめられる。例えばシャワーを出したら水しか出ないとか、どうにもならないような状況に、あえて行きたかったんです。

鈴木: 新潟で試合に出られるようになったときに、自分の中ですごく危機感を感じたんです。「このまま安定した環境にいても、自分は成長しない」と。だから自分がさらに成長するには、もう一度ゼロからスタートする必要があると。

鈴木: これは新潟で試合に出られなかった3年間の経験や、中学のディフェンダーに転向した時期、兄に勝てなかった時のことからも学んだんですが、自分が苦しいときや課題が山積みのときに一番成長するんです。現状に満足して、いるだけで評価されて試合に出られる環境は、絶対に良くないと思ったんです。

坂田: そこで移籍を決断したと。あえて究極の「ゼロ」の環境に飛び込んだんですね。

鈴木: そうです。スペインの街の人からも知られていない状況で、完全なゼロスタート。言葉も通じない中で家族と一緒に行って、その時に妻が出産もしたんですが、生活もサバイバル、サッカーもサバイバルで。めちゃくちゃきついけど、そのきつさが良かったんです。あの時期が自分と家族が一番成長できた時だと思っています。

坂田: すごい成功体験ですね。「一番苦しいときに一番成長できる」という経験があるから、あえてそこに行くというのは。起業家の方がよく話すような内容です。

鈴木: 中毒かもしれないですね(笑)。

坂田: でもそれを乗り越える自信もあるわけですよね、過去の成功体験から。普通の人は逃げますからね。

鈴木: そこを経験できたのが本当に良かったと思います。

坂田: 26歳という年齢で、それまでの成功を全部捨てて、誰も知らない環境に飛び込むのはなかなかできることではないです。

鈴木: このキャリア選択は本当に「ぶっ飛んでる」と思います。エージェントも含めて、サッカー関係者や同僚、家族も全員に止められました。給料も大幅に下がりましたし。

鈴木: 価値で考えると、僕はそのときプレイヤーとしてのバリューが一番高かったんです。オリンピック出場して代表にも入って、J1で試合に出ているという状況で、サッカー選手としては一番価値が高いタイミングでした。「ここで日本のオファーを受ければ、給料は5倍、6倍になる」と言われていました。

鈴木: でもそれをつかまずに、人間的な成長を選んだ。結果的に何が起きたかというと、スペインで3シーズン近くプレーした実績が付いて、バリューがまた戻ったんです。結果論ですが。そのときは全く想像できなかったし、僕は目先の高いものをつかみに行くのが苦手で、直感で動くタイプなんです。

鈴木: 本能的に自分の挑戦や成長を優先してしまう。

坂田: ギャンブラーみたいなところがありますね。

鈴木: 目先の利益を追わずに、真摯に自分の成長を求めていたら、結果はついてくるというのを経験で知っているので、自分の中では根拠があったんです。周りから見れば無謀に見えても、自分の中では「絶対大丈夫」という確信がありました。

家族との挑戦 — スペインでの生活

坂田: 結婚されたのはいつ頃ですか?

鈴木: ちょうどスペインに行くタイミングでした。妻が妊娠中に「スペイン行こう」と言って。

坂田: すごい決断ですね。最初は単身で行って、奥さんはその後?

鈴木: 1人目の子は日本で出産しました。その半年の間に環境を整えて、2人目はスペインで出産しました。

坂田: なるほど。妊娠中の奥さんをおいて「俺は修行してくるから」という決断はすごいですね。

鈴木: 妻の理解がすごかったです。本当に感謝しています。

浦和レッズへ — チャレンジを求めて

坂田: その後、浦和レッズに移籍されましたね。

鈴木: スペインから3ヶ月くらい経って、浦和に移籍しました。当時の浦和は強くて、天皇杯で優勝して、翌年はACL(アジアチャンピオンズリーグ)に出るという状況でした。

鈴木: 面白いのは誘われ方なんです。「今、素晴らしい選手がディフェンスにいるけど、鈴木くんならそこで勝負できると思うから加入してくれ」と言われました。「すぐに試合に使うから絶対来てくれ」とか「第一選択肢として即戦力で来てくれ」というオファーもあるんですが、このチャレンジを求めるような誘い方が、妙に響いたんです。

ジェフ千葉へ — 経験を還元する段階へ

坂田: 今はジェフ千葉に所属されていますね。その移籍の経緯は?

鈴木: 浦和で2年プレーして契約が満了になり、更新しないことになりました。いろんなチームからオファーをもらっていたときに、ジェフからもオファーがあって。これまでの経験を全部活かせると思いました。そのとき32、33歳だったので。

鈴木: 全部還元できる場所と思ったんです。当時のジェフは結果があまり出ておらず、チームとしても大変な時期でした。

坂田: J2のチームですよね。また挑戦されたわけですね。

鈴木: J1のチームで同じようなチャレンジをするよりも、J2で上を目指すチームに自分の経験を還元するというフェーズを経験したいと思いました。それにジェフに誘ってくれた人は、高校時代に新潟に誘ってくれたスカウトの人だったんです。当時は若手スカウトだった彼が、巡り巡ってジェフの強化部長になっていて、声をかけてもらったというのも大きかったです。

坂田: 人との縁がありますね。

サプリメントとの出会い — 体の変化を実感

坂田: 話は変わりますが、私たちのサプリメントについてはどのように知ったんですか?

鈴木: 最初の出会いはアスリートクリスマスパーティーというイベントでした。主催してくれたのがVフーズの山本さんというスープを作っている方で、そこで初めてお会いしました。実はその前に、僕がアキレス腱を断裂して手術した際に、そのVフーズの会長さんがVフーズのスープと一緒にサムライフのビタミンCを送ってくれたんです。「これは体のために絶対いいと思うから」と手紙を添えて。

鈴木: それを飲み続けているうちに、「これは何だ?」と思うくらい体調がどんどん良くなっていくのを実感しました。それでパーティーで坂田さんと会って、「サムライフの坂田です」と聞いた瞬間、「ちょっと待ってください!あのビタミンCの人ですか?めちゃくちゃ会いたかったです!」と話したのを今でも覚えています(笑)。

坂田: プロダクトが先だったから余計に驚かれたんですね。

鈴木: 実は自分でかなり調べていて、「他にも何かあるのかな」と思っていました。「すごくいいものがあるな」と感じて、「今度会長に会ったら聞いてみよう」と思っていたんですが、スープの会社の人に聞くのは失礼かなと思っていたところに、坂田さんにお会いできたんです。

坂田: 山本会長がすごい方なんですよね。僕も会長に認めてもらうまで結構大変でした。でも信頼関係ができて、山本さんも今は予防医学士になられました。山本さんに信用してもらって、一緒に何かできる関係になりました。

坂田: 実際にマルチビタミンなどを飲まれたときの感想はいかがでしたか?

鈴木: 一番びっくりしたのは目覚めの良さが全然違うということ。それと、疲労回復はもちろんですが、練習すればするほど体の状態が上がっていくという感覚を内側から体感できたことです。体の全体的なバランスが整っていくという感覚が、自分の中ですごく新鮮でした。

鈴木: この体で試合をやって、この体で練習したら、余計なことをしなくても、競技だけで違いが出てくる。そういう体になれると感じました。

坂田: すごく斬新なフレーズですね。余計なことをせずに競技だけに集中していれば、競技自体がよくなっていくと。

鈴木: そういうことだと思います。僕は本来、試合の中でレベルアップできれば一番いいと思っています。トレーニングにはマイナス面もあると思っていて、やりすぎることもあるんです。必要な時期ももちろんありますが。

鈴木: コンディションが最高なら、絶対にトップパフォーマンスを発揮できるという自信があります。だから、いかにトップパフォーマンスに持っていけるコンディショニングにするかが鍵なんです。そのコンディションであれば、試合をやるだけで試合のレベルが上がっていく。

鈴木: でも試合までの間に、コンディションを崩すようなトレーニングや食事、サプリメントの選択をすると、本来100%レベルアップするはずが、50%や70%くらいしか伸びなくなってしまう。サムライフのサプリメントを使うと「これなら100%だ」という感覚があります。

坂田: 自分では良いと思ってやっていることが、実は逆効果になっているかもしれないということですね。

鈴木: そうなんです。みんなそういうことをやっている可能性があります。

坂田: これはすごいですね。今までなかった視点です。でも理解できる人はあまりいないかもしれません。僕らはわかりますが、一般の人にはわかりにくいかもしれない。

鈴木: そこまで理解するには、多分大きな失敗も必要だと思います。

坂田: やりすぎてしまうとか、そういうことも。

鈴木: 今でもありますよ。トレーニングしていて「これはやりすぎた」とか「失敗だった」とか「やめる勇気がなかった」と思うことがあります。常に調整しながらやっている感じです。その中で、ぴったりはまるものがサムライフのサプリメントだったんだと思います。

将来のビジョン — 福祉とサッカーの融合

坂田: 35歳の今、これからのビジョンについて教えてください。

鈴木: 実は福祉の事業を始めています。僕がいたスペインのチームでは、知的障害や発達障害のある人たちのチームも持っていて、リーグ戦もやっていました。バルセロナのような大きなクラブもそういうチームを持っていて、障害のある選手たちも「俺はバルサの選手だ」と誇りを持って街を歩いている。そんな多様性を目の当たりにしました。

鈴木: 僕のいたチームはそういう活動に力を入れていて、子供たちの施設や選手とのふれあいの場を作っていました。それをぜひ日本でもやりたいと思って、福祉施設を立ち上げています。日本でもそういうリーグ戦を作りたいと考えています。

鈴木: 僕はサッカーでも会社経営でも、仲間を集めて繋がりの中で何かを成し遂げるのが好きなんです。それをずっと続けていきたいし、そういう価値観のサッカーチームを作っていきたい。競技をずっとやっていると勝ち負けや競争で疲弊していく選手や監督もいます。

鈴木: もちろんそういう勝負の要素も大事です。人が感動するのはそういうところからですが、サッカーはそれだけじゃない。誰とでも仲良くなれるという本質的な部分もあります。どちらの面も大切にしていきたいです。

坂田: 全く想像していなかった答えが返ってきました。その施設は基本的にサッカーに特化したものではないんですか?

鈴木: スポーツをやる施設ではありますが、サッカースクールというよりは学童保育のような形です。千葉の鎌取というところで、クラブハウスから車で20分くらいの場所です。学校の特別支援クラスに通っている子たちの放課後デイサービスとして運営しています。

鈴木: 国からの給付金という意味では介護と同じような仕組みです。「夢作り」をしたいんです。僕がサッカー選手として活動している立場を活かして福祉の事業と組み合わせると、地域貢献や人の夢作りが何十倍にもなる。ジェフのスポンサーや福祉業界のサポーターが協力してくれて、人の繋がりの中で素晴らしいことが起きていくんです。

鈴木: これは僕にしかできないと思っています。子供たちが自立して親から離れていくのが課題だったり、給付金に頼りすぎたり、選択肢が限られたりする環境では夢がありません。「夢のある環境、夢のある状況」を作りたい。それが会社のビジョンです。

鈴木: 引退後にやるというよりも、サッカーへの恩返しの一つとして今やっていきたいと考えています。

坂田: すごくいいですね。私も福祉の仕事をしていたのでわかりますが、福祉の仕事は心が表れますよね。課題も多いし大変なことも多い。実際のところ、儲かるかと言われると儲からないでしょうね。

鈴木: そうですね。でも自分にできることの一つなので、やっていきたいと思っています。

坂田: ありがとうございました。素晴らしい内容でした。


【編集後記】 鈴木大輔選手の言葉からは、「成長するためには苦難を恐れず、むしろ求めていく」という強い信念が伝わってきた。「動けば動くほど体が軽くなる」という彼の表現は、アスリートならではの身体感覚を的確に捉えている。兄への対抗心から始まったサッカーが、やがて人生哲学へと昇華し、今は福祉という形で社会に還元しようとしている彼の姿勢には、「本質」を見極める目があるように思う。サッカーがもたらす価値は、勝敗だけではないと語る鈴木選手の言葉に、スポーツの持つ本当の力を感じた。

鈴木 大輔(すずき だいすけ、1990年1月29日)

東京都国立市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ジェフユナイテッド千葉所属。ポジションはディフェンダー(センターバック)。元日本代表。

経歴  仲良しスポーツ少年団/テイヘンズFC Jrユース/星稜高/アルビレックス新潟/柏レイソル/ジムナスティックタラゴナ(スペイン)/柏レイソル/浦和レッズ

Jリーグ・ジェフユナイテッド市原・千葉HP

https://jefunited.co.jp

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