小児喘息からオリンピック金メダルへ―フェンシング 山田優選手が語る挫折と栄光の軌跡

「金メダルを取った時は本当に人生で初めてほっぺたをつねりました。『夢かな』って」

東京オリンピックでフェンシング日本代表として金メダルを獲得した山田優選手が、競技人生の軌跡を語る特別インタビュー。小児喘息を抱えた少年時代から世界の頂点に立つまでの道のりには、意外な出会いと転機が隠されていた。

フェンシングとの運命的な出会い

坂田: フェンシングを始めたきっかけを教えていただけますか?

山田選手: 僕がフェンシングを始めたのは小学2年生の時です。三重県の鳥羽市出身なのですが、国民体育大会の関係で優秀な指導者の方が三重県に来ていました。「そもそもなぜフェンシングなの?」と言われると、僕はもともと体がすごく弱くて、小児喘息を持っていたんです。ちょっと動くと咳が出てしまうので、本当は空手とか他のスポーツもやりたかったのですが断られました。そんな中で「少しずつでいいからやってみようよ」と言ってOKしてくれたのがフェンシングだったんです。

もう一つの理由は、近所のいじめっ子がフェンシングをやっていて、勉強もスポーツも何をやっても勝てなかったので、「そいつをやっつけてやろう」と思ったのが結構大きな理由です(笑)。そのきっかけで「鳥羽フェンシングクラブ」で始めました。

白熊コーチとの出会い

坂田: エリートコースを歩まれていますが、その経緯を教えてください。

山田選手: 僕はもともとフルーレという種目をやっていたんです。どの大会に出てもベスト8で表彰台に上がれない選手でした。特に目立つような選手でもなかったのですが、たまたま中学2年生の時に違う種目の試合に出てみようとエペの大会に出たんです。

そこでオリンピックのウクライナのコーチ、サーシャコーチという方と出会いました。試合していたら、後ろのベンチを振り返ったら知らない大きい方が白熊のような感じで座っていたんです。

中学生だったので「誰だろう?」と思っていました。試合が終わった後、サーシャコーチが寄ってきて、僕に「オリンピックに興味あるか?」と聞いてきたんです。

当時フルーレしかやっていなくて、エペは初めてだったのに、「オリンピックに興味あるか?」と聞かれて、興味はあると言ったら「じゃあ東京に来て練習に出てこい、今日からエペの選手だ」と言われてしまいました。一目惚れされたようなものです(笑)。それがエペに転向するきっかけでした。

でもすぐに強くなったわけではなくて、全然勝てなかったんです。だから「なぜ声をかけられたんだろう」というのも不思議でした。高校に進学したとき、その監督の先生が元日本代表の太田選手と一緒にチームを組んでいた先生だったんです。その先生からフェンシングについていろいろ学び、そこから競技力がぐんと伸びました。

挫折と結婚、そしてブレイク

高校までは良かったのですが、大学以降は全然成績が伸びなくて、周りからは「やっぱりダメだったな」みたいに言われることもあったのですが、太田選手だけは「才能があるんだからやめちゃダメだ、ここで折れるな」と言い続けてくれたんです。

太田選手とサーシャコーチにしか「才能がある」と認められたことはなかったんです。

大学2年生の時にアンダー20で世界チャンピオンになって、自分が最強だと思っていました。でも、そこからカテゴリーがシニアになったら予選落ちしてしまったんです。その時「世界って広いな」と思いました。

結婚したのが23歳の時なのですが、妻もフェンシングの選手だったんです。一緒にオリンピックを目指して頑張っていたのですが、妻がいろんな理由でオリンピックの選考から外されてしまったんです。そこから「妻の分も頑張ろう」と思ったところから急に成績が伸び始めて、今まで海外で勝てなかったのに、そこをきっかけにすごく成績が伸びたんですね。

坂田: 強くなっているという実感はありますか?

山田選手: 強くなっている実感は正直ないです。でも勝てるんです。自信もありますし、勝てます。何が一番勝てる要因かというと、多分気持ちじゃないでしょうか。「妻の分も頑張ろう」と思ったら、ここで負けられないという気持ちが一層強くなりました。

技術は今までもあったんです。サーシャコーチや太田選手が認めてくれるくらいの技術はあったけど、それを自信に変えられなかったんです。そこに自信をつけさせてくれたのが妻という存在だったんです。

「楽しむ」ことで掴んだ東京オリンピック金メダル

坂田: 東京オリンピックでの金メダル獲得について、どんな気持ちでしたか?

山田選手: 東京オリンピックは出場権が取れなかったんです。開催国枠での出場だったので、言ったらビリからのスタートでした。正直、誰も期待していない状態だったのですが、トーナメント表が発表されたときに「もしかしたらメダルくらいはいけるんじゃないか」と思いました。

その辺からワクワクする気持ちがどんどん増えていって、緊張よりも楽しみな感じでした。そもそも出られない大会ですから、負けても「そもそも出られていないんだから」という気持ちでした。プレッシャーは全然なくて、ただその場を楽しもうとやっていました。

金メダルを取った時は本当に人生で初めてほっぺたをつねりました。「夢かな」って。何回寝て起きても金メダルがあるんですよ。「うわっ」と思って、今思い出してもニヤニヤしちゃいますね。

決勝戦が一番楽しかったです。準決勝に勝った時点でオリンピックのメダルをもらえることが確定していて、それでみんなすごくテンションが上がってしまって、緊張どころではなくなってしまったんです。「メダリストになっちゃったよ」と言っていたら決勝戦が始まって、アップもほとんどしていない段階で「どうする?」という感じで、もう試合どころではなかったんです。だからまったく緊張もなく、パフォーマンスも最高の状態で、みんな楽しそうにやっていました。

パリオリンピックへの挑戦と「諦めて楽しむ」の逆説

坂田: パリオリンピックに向けての挑戦はいかがでしたか?

山田選手: ディフェンディングチャンピオンとしての3年間は大変でした。「金メダルを取っているのに次は出られないなんてあり得ない」というプレッシャーがありました。

そのプレッシャーがあって、プレイスタイルが「楽しむスタイル」から「守り、リスクを生まないで」というスタイルになってしまって、誰も勝負しなくなってしまったんです。その結果、団体戦も個人戦もガタガタと崩れてしまいました。

「これをどうにかしなければいけない」と思って、2023年に話し合いました。「自分たちはチャレンジャーなんだ。前回出られたのはラッキーで、メダルを取れたのもラッキーなんだから」と。「自分たちで出場権を取ったこともないような僕たちがプレッシャーなんて言っている場合じゃない」と。

そこから皆の気持ちが楽になり、のびのびとしたプレーができるようになりました。僕は個人戦のスタートがめちゃくちゃ悪くて、絶望的でした。でも終盤で一度諦めて「このオリンピックレース、最後まで楽しんじゃおう」と思って、そこに切り替えた瞬間、パフォーマンスがぐっと上がったんです。出る大会ごとにメダルを取って、ランキングがいつの間にか皆を抜かして、出場権を獲得しました。

自分でもびっくりしました。こんなことがあるんだなと。ワールドカップは年間で4大会あるのですが、3大会連続でメダルを取りました。これは100年に1回あるかないかくらいのことです。

「諦め」から「楽しもう」という気持ちの切り替えがすごく大きかったです。

妻からも「硬いね、いいパフォーマンスできてないね」と言われていましたが、後半は「気持ちが抜けているね、楽しそうにやっているね、だからいいところが出ている」と。「プレッシャーを感じるのはもちろんだけど、自分らしさを出すためにもっと楽しくフェンシングをやれば」と言ってくれたのが大きかったですね。

トップアスリートの体調管理の挑戦

坂田: フェンシングにおいて体の強さはどうやって作られているのですか?

山田選手: フェンシング選手はフィジカルの合宿をするのですが、僕はあまり筋トレをするタイプではないんです。でも足腰はフェンシングの練習の中でしっかり鍛えられています。

実は僕はすごく体が硬いんです。柔軟性がなくて。体力測定をすると全競技のアスリートの中で一番硬いと言われるほどです。専門家からは「その硬さをうまく使ってバネに変えられている」と言われたことがあります。柔らかかったら振り込む動作が沈み込んでしまい、いいアタックが打てないのですが、硬いからパンッと戻れるんです。僕のアタックの俊敏さはそこから生まれているようです。

坂田: パリオリンピックに向けた準備の中で体調面で苦労されたことはありますか?

山田選手: 昨年の9月か10月くらいに危機的な状況になったんです。1ヶ月の間に40度の熱が3回も出て、夜も寝られず疲れが取れなくて最悪でした。イベントなどを精力的にこなして、あちこちに移動していたせいか、栄養管理が全然できていなかったんです。

そんな時に経営者交流会で坂田さんにお会いして、体調のことで相談したんです。すぐにサプリメントを勧めてくださって、実はその場でもらったんですよ。翌朝「何これ?」という感じで驚いたのを覚えています。体調がめちゃくちゃ良くなって、目覚めから違ったんです。朝起きるのも辛かったのに、体が元気になりました。

その後検査をしてみたら栄養状態がかなり悪かったんですね。2回カウンセリングを受けて、タンパク質が足りていないことや、プロテインを取る時はビタミンB1も一緒でないと効果的ではないことなど、初めて知ることばかりでした。

実はアスリートって栄養教育がほとんどないんです。若い選手は体力があるから栄養が足りなくても気づかない。僕も30歳になって初めて実感するようになりました。海外遠征が多いとバランスの良い食事を続けるのは現実的に難しいんです。

僕の場合、試合でパフォーマンスが上がるのは美味しいものを食べた時。気持ちがすっきりして、そこに必要な栄養が加われば最高じゃないですか。これまで試してきたサプリメントは効果がイマイチだったので飲まなくなっていましたが、今回は本当に体感できる変化がありました。

坂田: 言われたことをそのままやることについてどう思われますか?

山田選手: 言われたことをそのままやって成果が出るのなら、誰もが金メダリストになれるはずですよね。でもそうではない。一人ひとりに合った方法を見つける必要があります。

僕の場合は「諦めて楽しむ」ことでパフォーマンスが上がりました。普通なら「諦めるな」と言われるでしょう?でも僕はパリ五輪の出場権争いで一度諦めた時に、「最後だから楽しんじゃおう」と思ったら急に結果が出始めたんです。

同じように栄養面でも、「これが正解」と決めつけず、自分の体と対話することが大切です。体調不良を経験して初めて気づくこともあります。常に自分に問いかけながら、自分に合った方法を見つけてほしいですね。

あとは仲間の大切さです。僕が強くなれたのは周りの人のおかげ。妻もそうだし、太田選手やサーシャコーチなど、才能を認めてくれた人たちがいたから今の自分があります。技術だけでなく、精神面でも支えになる仲間を見つけてほしいです。

後輩たちへの思いと未来への展望

坂田: 今後の展望についてお聞かせください。

山田選手: 後輩たちのセカンドキャリアについて考えることが多いです。フェンシングだけでなく、次のキャリアにつながる活動ができるようにサポートしたい。

小学校訪問やショッピングモールでのイベントなど、フェンシングの普及活動も続けていきます。祭りの時に金メダルを置いていると人が集まってくるんです(笑)。他の競技の友達とも手を組んで、子供たちや一般の方々と近い距離で接することができるイベントをやりたいと考えています。

もちろん、自分自身はロサンゼルスオリンピックも目指していきます。年齢を重ねるごとに体調管理の重要性を実感しているので、これまでの経験を活かしながら、妻や仲間と一緒に楽しく競技を続けていきたいですね。

山田選手は小児喘息を抱えた少年からオリンピック金メダリストになるまで、様々な挫折と出会いを経験してきた。「諦めて楽しむ」という逆説的な心境が最高のパフォーマンスを引き出したという彼の物語は、競技を超えて多くの人の心に響くものだろう。


山田選手のイタンビューを行っていて印象に残ったのが「仲間を大切にする」「競技を楽しむ」「一緒だと強くなる」のキーワード。ご本人も漫画ONE PIECEが大好きとおっしゃっていましたが、後半ONE PIECEのゾロに見えてきました。「剣」の達人なだけに。

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